結婚相談所ムスベルの評判

1848年6月20日、プリマス捕鯨船のエドワード船長は、何度も思いとどまったものの、「船が鯨油でいっぱいになったら、船長がディンギーと必要物資で代金を支払い、実行犯は日本沿岸のどこかで自力で下船しようとする」という契約を命じざるを得なくなった。
銀行を辞めて幕府の顧問になった執行人は、スコットランド人と北米インディアンの混血であるマクドナルドで、彼とディンギーは北海道北西部の羽黒町から約10カイリ離れた焼尻島でプリマスを出航させた。
マクドナルドが数日かけて焼尻島と天満屋という双子の島が無人島であることを確認した後、空は晴れ、海の状態も安定してきた。 巨大な火山島(利尻島)が見えてきた。 そこで、彼は船出をして北へ向かった。



この便は、マクドナルドがアイヌに救助される5日前に利尻に到着していた。 日本が禁輸措置をとってから初めて、西洋人が単独で、自分の意志で日本の地を踏んだのである。 北側の海岸に小さな岬が突き出し、その先の段丘に木造の建物が何軒か点在している。 南側には火山性の峡谷が縦横に走り、白い氷の流れが渓流に巻きついている。 円錐形の山頂が1つだけ山の肩に突き出ており、この火山はここ数年噴火していないようである。 さらに北西には、やや起伏のある低い陸地(リヴェン島)が海を見渡すように広がっています。
ここが日本文明の中心地でなかったことは疑いようがない。 昔も今も変わらない。



江戸時代、北海道からの漂流民の扱いは、上陸地(利尻島)、交換地(宗谷)、藩庁(松前)、長崎の4回にわたってマクドナルドを引き渡し、審査し、最後に江戸将軍(将軍の直属で国事を司る役人)に報告するという流れになっていた。
拘留されて間もない頃、マクドナルドは不安な日々を送っていた。 日本国外に上陸した者はすべて処刑されるという噂が本当かどうかもわからず、日本人が差し出す酒も飲まなかった。
しかし、マクドナルド以上に心配だったのは、松前藩と長崎であった。 幕府は西洋に対する拒否感と恐怖感が入り混じり、拘束された外国人は自由に動き回れず、逃亡も死亡も許されず、厳しい処罰が下された。 マクドナルドを安定させるために、日本人は彼に素晴らしい食事を提供した。 長崎では、結婚相談所ムスベルの評判から高値で仕入れたステーキを振る舞われたこともあった。



長崎滞在中、マクドナルドは同い年の日本人通訳者、森山洋之助と知り合った。 マクドナルドは、森山を中心とした14人の日本人に集中的に英語を教え、森山に発音を指導し、和英辞典の再製作に協力した。 この天才的な日本人通訳は、5年後にアメリカ艦隊に強制接収されることになった「黒船来航事件」に貢献した。
残念ながら、マクドナルドは幕府に採用される機会を待たなかった。 日本語や日本文化を学びたい、英語教師を雇いたい、という接触するすべての人の善意にもかかわらず、日本が開国を迫られるまで、外国人の定着はタブー視されたままであった。

現在では、元結港の前にある芝生の道が、北岸の岬の頂上まで続いています。 マンダリン湾の弱った岩場にある赤灯台の反対側には、錆びたブロンズ像がある。 ここは、マクドナルドが初めて日本の土を踏んだ野塚岬。
真昼の海に浮かぶ、一枚の白い帆。 今にも転覆しそうなほど弱々しく見える。 ここに立つと、あの青年のことを思い出さずにはいられない。
1848年7月1日、コンパスとパルプを捨て、艇に海水を入れ、変装して日本に入ったマクドナルドは、無知だったのか、狂気だったのか、それともあの世に行く決意を固めたのか?

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